Kさんのお祖父さんが若い頃の話だという。
近所の川に一人で釣りに行った。
岸に腰を下ろして釣っていると、背後で呼ぶ声がした。
「おい……おい」
ほんのすぐ傍から聞こえているようなのに、見回しても誰の姿もない。陰になるような場所もない。
それって動物の鳴き声とかそんなのじゃないの、と話を聞いたKさんが尋ねると、お祖父さんは首を横に振った。
おい、と呼ぶ声に交じって何かぶつぶつと呟いたりするのも聞こえて、間違いなく人間の声だったという。
お祖父さんはこれは狸だか狐だかの仕業ではないかと考えた。
声の相手を探そうとその場を離れた隙に、釣り上げた魚を盗られてしまうのではないか。
そこでお祖父さんは聞こえないふりをして、釣りを続けることにした。
それからしばらくして声が止んで、お祖父さんはまた周囲を見回した。やはり誰の姿もない。
その頃には夕飯のおかずになるくらいには釣果があったので、お祖父さんは道具をまとめて帰宅した。
すると出迎えた家族が変な顔をする。
鏡を見てみると、いつの間にかお祖父さんの唇にはべったりと口紅が塗られていたのだという。