バンザイ

Kさんには大学生の時から仲の良かったMという友人がいた。
気さくで社交的なMは友達が多かったが、特にKさんとはなぜか馬が合って一緒に行動することが少なくなかったという。
大学を出てから別の業種に就職しても頻繁に連絡を取り合い、月に一度くらいの割合で一緒に呑みに行ったりしていた。
しかしMが結婚してからは何となく気を使ってしまい、連絡を取り合う頻度も減って少しずつ疎遠になってしまった。
年賀状のやり取りくらいしか交流がなくなってしまった状態が二年ほど続いた頃、Kさんは偶然Mに再会した。
春先の午後七時頃、仕事帰りのKさんが駅で電車を待っていると向かい側のホームにMが立っていることに気が付いた。
久しぶりに見るMは何だかひどく疲れたような様子でうつむいたまま、電車待ちの列から一人離れた所に立っていた。
その元気のない様子が気になり、Kさんは急いで向かい側のホームに向かった。Mは同じ場所に同じ姿勢で立ったままKさんがすぐ傍に寄るまで全く気付く様子がなかったが、Kさんの顔を見ると暗い顔に以前と同じ人懐っこい笑みを浮かべた。
Mも仕事帰りということだったが、久々に会ったのでせっかくだから少し呑みに行こう、とKさんが誘うとMもすぐに頷いた。
駅前の居酒屋でカウンターに隣り合って呑み始めたものの、どうにも以前と違ってMの口数が少ない。疲れているのか何か心配事でもあるのか、いつものMらしくなかった。
何か困ったことでもあるのか、とKさんが尋ねるとMは少しの間言いよどんでいたものの、やがて自嘲するように小さく笑ってから言った。
「うちの嫁が出てっちゃって」
ここ一年ほど意見がぶつかりがちで喧嘩が多く、ついに先日幼い子供を連れて家を出ていってしまったということらしい。それが原因でMはすっかり参ってしまっているという。
何が理由で喧嘩になったんだ、とKさんが尋ねるとMは言いたくないのか、口を閉ざした。
まあ事情はよくわからないけど元気だせよ、とKさんはありきたりの慰めを言う事しかできなかった。


一時間ほどで店を出てそのままKさんはMと別れたが、その夜自室で寝ていたKさんはふと目を覚ました。
部屋も窓の外もまだ真っ暗で、枕元の時計を見ると午前三時過ぎ。尿意があるわけでもなく、なぜそんな時刻に目が覚めたのかよくわからない。
昨晩の酒のせいで眠りが浅かったんだろうと納得してもう一眠りしようとしたが、その時部屋の壁際に誰かが立っているような気がした。
はっとして首だけ起こしてそちらを見ると、スーツを着た男が一人こちらに背を向け壁に向かって立っている。両手を挙げてバンザイの格好をしているが、その両手が天井にほとんどついている。
そしてその足先は床についておらず、靴下を履いた足の裏が床から十センチほど上に見えていた。
つまり男は立っているのではなく両手で天井からぶら下がったような姿勢なのだが、天井に掴まることができる部分などない。
何だお前、と声を出そうとしてKさんはふと男の後ろ姿が昨晩のMとよく似ているような気がした。
……お前Mか、と声をかけると男はこちらを向くことなく天井にずるっと吸い込まれるように消えた。
寝ぼけているのかとKさんは飛び起きたが、時計は今しがた見た通りの三時過ぎで、確かに目は覚めている。
明かりを点けてMらしき男がいた辺りの壁と天井をよく見てみたものの、特に変わった様子はなかった。
それではあれは一体なんだったというのか。Kさんの背筋にいやな汗が浮かんだ。
しかしあのバンザイした男の後ろ姿は、どうにもMに似ていたような気がしてならない。
もしかするとMに何かあったのではないか……と心配になったKさんは翌朝すぐにMに連絡を取ろうとした。
すると電話を解約したか番号を変えたのか、おかけになった電話番号は現在使われておりませんとアナウンスが流れる。
他の友人にも尋ねてみたものの、Mの近況を知っているものは誰一人いなかった。
Mの実家にも電話をかけてみたものの、やはりこちらも繋がらない。Mの職場に問い合わせてみるとすでに退職しているという。
結局それから五年ほど経つものの、KさんはMにそれ以来一度も会えていない。今となっては最後に居酒屋に行ったことまでもが夢だったような気さえしてきたのだという。
どこかで元気にやっているといいんだけど――と難しい顔をしてKさんは言った。