軍手

Hさんがアパートで一人暮らししていた頃の話で、暑い夏の盛りだったという。
自室で夕食をとった後、テレビを見ながらのんびりしていると天井の蛍光灯の周りを虫が飛び回り始めた。
どこから入ってきたのかわからないがそれはコガネムシの類で、天井やら壁やら至る所にぶつかりながら飛び回るのでとても気に障る。
雑誌を丸めて叩き落とし、外へ放り出そうと窓の網戸を開けた。虫を掴んだ左手を窓から突き出してそのまま投げ捨てた時である。
突然左腕の手首を誰かにグッと掴まれた。
何だ!?と手首を見ると、軍手をはめた誰かの手ががっしりと掴んでいる。相手の手しか見えないから誰だかわからない。
咄嗟にその手を振りほどこうと左腕を引いたところ、手首を掴んでいる手からあっさりと力が抜けた。
そのままHさんは腕を窓の中へと引っ込めたが、なぜか手首には軍手が巻き付いたままになっている。慌てて手首から引き剥がしたが、何の変哲もないただの軍手にしか見えない。中に手が入っていないのになぜ手首に付いたままだったのか。手首を掴んだままで中身はどうやって抜けたのか。
そもそも手首を掴んできたあの手は誰だったのか。もう一度窓の外を窺ってみたものの、誰の姿もない。立ち去る音も聞こえなかった。
Hさんの部屋はアパートの二階にある。ベランダはなく、窓は隣の部屋の窓と離れている。隣の部屋から手を伸ばしても届くはずがない。
訳がわからないながらも何者かに腕を掴まれたということで一応警察に通報しようと思ったHさんだったが、気が付くと先程の軍手がどこにもない。部屋中を探しても見つからなかったので、結局通報もせずに済ませてしまったという。