水槽の中

Tさんという女性が当時付き合っていた男性と水族館に行った。
付き合い始めてから一ヶ月ほどのアツアツの時期で、水族館でも魚にはあまり目を向けずに手を繋ぎながらうっとり過ごしていた。
半分ほど順路を回ったあたりの長椅子で並んで一息ついていたところ、目の前にある小さな水槽の前でひとりの子どもが立ち止まり、熱心にその中を眺めだした。
そしてその子は水槽に向かってバイバイと言って手を振り、立ち去っていく。
子どもが好きなTさんはその様子を微笑ましく見ていたが、それから数分後に来た別の小さな子も同じ水槽を覗き込み、手を振っている。
更にもう一人、別の子が同じ場所で手を振っているのを見て、Tさんの頭にふと疑問が浮かんだ。
手を振っているのは子どもたちがお魚さんに向かってさよならしているんだ、と初めは思ったけれどそれは違うんじゃないか。
だって他の水槽では手を振ったりしていない。あの水槽にだけ他の水槽とは違う何かがあるのかな?
でも手を振っているのは子どもだけで、大人は特に変わった反応はしていないようだ。
子どもだけにわかる何かがあるんだろうか?
そんな疑問を隣の彼氏に投げかけてみたところ、それじゃあ次に来た子どもに聞いてみたら?という。
それもそうか、とその水槽の前に立って少し待っていると、そこへ小さい女の子二人を含む親子連れが来た。
Tさんが水槽の脇に避けていると、女の子たちは熱心に水槽を覗きこんだ。
そして先ほどの子どもたちと同じように、水槽の中へ向かって嬉しそうに手を振り始めた。
そこでTさんは、その二人に向かって問いかけた。
「ねえ、なんで手を振ってるの?」
すると女の子のうち少し背が大きい方の子が答えてくれた。
「だって中で手を振ってるもん」
え?中って、水槽の中?
Tさんは水槽に目をやったが、上の方に泳いでいる小魚は別に手を振っているようには見えないし、下の方には岩と水草が見えるだけだ。
「手を振ってるって、何が?」
「隠れちゃった」
「隠れちゃったって、どこ?」
女の子は底の岩を指差す。
手を振ってるように見える魚がそこに隠れてるのかな?
数秒間じっとその岩のあたりを眺めていると、その向こうから小さな生き物がゆっくり姿を見せた。
「あ、出た!」
女の子たちはまた嬉しそうに手を振る。小さな生き物の方も子どもたちに向かって楽しそうに手を振っているように見える。
しかしそれはTさんの予想外のものだった。
(えっ?何なの?)
水槽の中で手を振っているのはどう見ても魚ではなく、十センチにも満たないくらいの小さい人間だった。
波打った白髪の生えたお婆さんで、紫色の洋服を着ている。
小さいので顔の表情まではよく見えなかったが、どうやら楽しそうに子どもたちに手を振っている様子だった。
驚いたTさんは彼氏にも見せようとしたが、彼が水槽を覗きこんだときにはもう小さなお婆さんは見えなくなっていたという。