Nさんは大学生の時にバドミントンのサークルに入っていた。
夏休み中、お盆明けの練習に友人のTさんが来なかったので電話をかけてみたが出ない。
携帯電話にメールを送ってもみたがやはり何の返答もないまま、翌日の練習にも来なかった。
それまでそんなことは一度もなかったので、少し心配になったNさんはTさんの住むアパートを訪ねた。
Tさんの部屋を訪ねるのは初めてではなかったが、夏休みやお盆の帰省のために前回来てからかれこれ一ヶ月は経っていた。
来てみると何やらTさんのアパートの正面のブロック塀に、落書きがしてある。



と、縦一メートルほどの大きさで赤く一文字だけがおそらくスプレーか何かで書かれている。
何これ、この辺りは治安悪いのかな、と顔をしかめながらTさんの部屋のベルを鳴らした。
するとたっぷり時間を置いてから控えめにドアが開き、Tさんが顔を出した。
顔を見てほっとしたNさんだったが、Tさんはお盆前に会ったときよりやつれた様子で、どうも何か事情がありそうである。
何かあったのかと聞くNさんを部屋に通したTさんは、不安そうに何度も窓の外を眺めながら、途切れ途切れに話し始めた。

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お盆に帰省したTさんは、久しぶりに会った地元の友人達と肝試しに行ったのだという。
場所は地元でも有名な元旅館の廃墟で、幽霊が出るなどという噂はないものの、荒れて昼でも薄暗い館内は肝試しにぴったりだった。
写真を撮りながらロビー、広間、厨房、客室と見て回ったが荒れ放題になっている他は特におかしなこともない。
拍子抜け半分、安心半分といった心持ちで再び玄関ロビーに戻ってくると、先程とは少しだけ様子が変わっていた。
ロビーの壁に、真っ赤なスプレーで大きく落書きがしてある。



入ってきた時にはそんなものを見た覚えがない。
後でデジカメを確認したところ、入った時に撮った写真にもそんな落書きは写っていなかった。
ということはTさんたちが館内を回っている間に何者かが書いたということになる。
廃墟とはいえ、落書きをするような人はどうせ暴走族か何かだろう。こんな場所でそんな人と鉢合わせるのは嫌だ。
玄関や門の付近に他の車やバイクは見当たらなかったが、どこに落書きの主がいるかわからない。
Tさんたちは乗ってきた友人の車ですぐにその場をあとにした。


そしてお盆期間が過ぎ、Tさんが東京に戻る日が来た。
実家から駅に向かう途中、いくつかの場所に「文」という落書きを見かけたTさんは気味が悪かったが、もう東京に戻るのだし気にしないことにした。
しかし新幹線に乗って東京に戻り、アパートの最寄り駅にたどり着くと、そこで信じられないものを見つけてしまった。






郷里で見たあの一文字だけの落書きが、駅からアパートまでの道中に何箇所も記されていたのだ。
赤いスプレーで書かれているところも郷里で見たものそのままである。
帰省前にはそんなものは確かになかった。これは一体どういうことなのか。
すっかり肝を潰したTさんは、落書きがあってもできるだけ見ずに済むように、下ばかり見てアパートに戻り、それからずっと外に出ていないのだという。
窓の外をしきりに気にしているのは、今にもそこから見える範囲にあの落書きが増えてしまわないかと心配でしかたがないらしい。


Nさんはアパートの正面で見たあの落書きのことはTさんには言い出せなかった。
あんまり気にしないほうがいいよ、ただの落書きなんでしょ、体を動かしたほうが気が楽になるよ、とTさんをひとしきり励ましたNさんはアパートの部屋を出た。




正面に見える落書きは、いつの間にか二文字に増えていたという。