クロスゲーム

父一人娘一人、父子家庭の生活を始めてから十年以上経つ。娘も先だって中学二年生になった。幼い頃は男の子よりも活発だったくらいだが、近頃急に落ち着いてきた。やはり女の子なのだなあ、と思う。誰かの影響だろうか。友達だろうか。
ところで最近気が付いたことがある。娘の鼻と口の間にヒゲが生えているのだ。ヒゲと言っても男性のように太いものではなく、あくまでも産毛程度の細かい毛なのだが、それが明らかに頬の辺りよりも濃いのだ。
女性も思春期のころになるとヒゲが濃くなるのだなあ。ホルモンか何かの関係だろうか。
この歳になって初めて知った事実に感心してしまう。ひょっとしたら今まで気が付かなかっただけで、しばらく前から生えてきていたのかもしれない。
しかし世の中の女性はヒゲの処理を毎日欠かさずしているのだろうか。それとも成長するにつれだんだん生えなくなるものなのだろうか。少なくとも、高校時代に付き合っていたことがあった女の子は髭など特に見当たらなかった。高校生くらいになると気にして処理するようになるのだろうか。それとも体質により濃さが違って、うちの娘は毛深い体質なのだろうか。あるいはそういう可能性もある。娘は日本人の血筋ではないので、比較的毛深い体質なのかも知れない。
いずれにせよ娘も女の子である。ヒゲが濃いままでは身だしなみとしてあまり好ましくあるまい。こういうのを放っておくあたり、娘もまだ子供なのだろう。しかしどこまではっきり指摘していいものか迷う。どう言ったものか。こういうとき、あの子に母親がいればどんなによかったか。自分が父親でなく母親だったならば、と考えることがこの頃多くなった。母親ならばこういう時もごく当たり前のようにそれを指摘して、女性としての身だしなみの方法も教えてやれるのに。同性の親がいないというのは娘にとっても何かと不便なものなのだろうと思う。二年程前に娘が初潮を迎えた時も私は大したことはできなかった。たまたま隣の奥さんが気付いてくれたから良かったものの、もし私と一緒のときに始まってしまっていたら私は到底満足には対応できなかったのではないかと思う。このように思い当たることの他にも、私が気付いていないだけで色々至らないところは多いのかもしれない。
やはり母親は必要なのだろうか。私は結婚相手を探すべきなのだろうか。そう思い始めたのは別に近頃になってのことではない。娘が小学生の頃に聞いてみたことがある。あれは確か娘のクラスで授業参観があった時だった。他のクラスメートの保護者はほとんど母親が来ていて、父親が来ていたのは我が家くらいのものだった。
「なあ、お母さん欲しいか?」
娘は意外なことを聞いたという顔で少し考えた後、むしろこちらを心配するようにこう答えた。
「寂しいの?」
小癪な受け答えをする小学生である。誰の教育か。ともあれ、少なくとも当時娘の方ではあまり母親の必要性を感じていなかったらしい。隣の奥さんも娘には幼い頃から目をかけてくれていたし、私もずっと自宅で仕事をしていたので、娘もあまり寂しさを感じなかったのかもしれない。
娘もそんな調子だったし、さし当たって相手に心当たりがあるわけでもなかったので、何だか億劫になってしまって今まであまり結婚について現実的に考えないできてしまった。娘は養女なので、私はこれまで結婚経験がない。もしかすると結婚に対して億劫というより、臆病になってしまっているのかもしれない。ずっと結婚しなくてもいいかとも思っていたが、娘が成長してくるにつれてその考えも揺らいでいる今日この頃である。それにした所で娘自身がどう思っているかということよりも、きっと私の方が上手く親をやれるかどうか不安に思うことが増えたということなのだろう。
とはいえ、女の子は母親からのみ「女性」を学んでゆくわけでもないだろう。友人や、身の回りの女性から得ることも多いはずだ。だからこうやって私が悩んでいるのも、もしかしたら取り越し苦労なのかもしれない。こういう悩みを抱えることになろうとは、娘を引き取った頃は迂闊にも予想もしていなかった。子育ての経験もない独身の若造が、幼い子どもを引き取るなどよくもまあ思い切ったことをしたものだった。しかし後悔はしていないし、これからもしないだろう。
とにかく今は父として、娘に身だしなみについて指摘してやらねばならない。あれこれ迷うのは後でいい。これまでもそうしてきたのだ。私は決心し、風呂上りに牛乳を一気飲みした娘に声をかけた。


「ヒゲ生えてるぞ、よつば」


よつばと! (1) (電撃コミックス)

よつばと! (1) (電撃コミックス)