切腹探偵

待望の第一子が元気に産声を上げたとき、隣室に控えていた原田新左衛門は思わず袴を握り締めた。呼吸は最前からずっと詰めたままである。すぐに下女が彼の元に駆けつけて告げた。
――男の子に御座います――
新左衛門は溜息を長々と吐いた。


原田家は周囲からは不思議な家系として認識されていた。
まず何の御役についているのかがわからない。当主の新左衛門が何らかの公務に就いているところを見たという者がいないのだ。新左衛門の姿が目撃されるのは、決まって城下の水辺で独り釣り糸を垂れている処であったり、自宅の庭で畑を耕している処であったりした。しかも昔を知る者に言わせれば、こうした暮らし振りは何も当代に限ったことでは無いという。原田家の先代も、更に聞くところにはそのまた前も、ずっとそんな調子だったとのことである。中には原田家は浪人なのではないかと訝る声もあったが、別の者の言う事には禄は確実に与えられている筈であるという。
事実、主家からの斎藤家の扱いは浪人に対するものでは到底無い。家中の軽輩は城下の組屋敷に住まわせられているが、原田家は小さいながらも一宅を与えられている。また禄高も二十石三人扶持を与えられている。過去の何らかの褒賞による捨扶持としてもこれは些か多いし、代々賞せられる程の功績が原田家にあるという話も誰一人聞いたことが無かった。
ある時、家中の一人が疑問に堪りかねて新左衛門に直接問い質したという。御手前は如何なる御役についておられるのか、と。それに対し新左衛門は曖昧に微笑して言った。
――死ぬことにござる。
問いを発した者は、新左衛門の浮かべた一種虚無的な微笑にそれ以上追求する気勢を殺がれてしまい、そのまま退散する以外無かったという。
この答えを聞いたある武士は、膝を打って新左衛門を褒めた。曰く、いかにも武士の本義は主君のため戦にて命を捨つることにあり。天晴れ新左衛門、当代珍しい誠の武士にござる。
しかし大抵の者はそういった意見は持たなかった。当然である。戦国の世ならいざ知らず、この太平の世に命を張る局面がそうそうあるはずがない。只その時のためだけに、普段は何の働きも見せない者に扶持を与えるということがあろうか。矢張り新左衛門、何か隠しているに相違ない。
しかし、実のところ新左衛門の言葉にも嘘はなかった。彼の役目とは正しく死ぬことだったのだ。余人の与り知らぬ処で、原田家には代々とある重要な役目が仰せ付けられていたのである。それは家中でも当主直正公と筆頭家老石井主膳の二人にのみしか知られていない秘事であった。


原田家には代々密かに伝わる技術があった。否、それは技術と呼べるものであったか。技術とは適性の個人差はあるにせよ、訓練により習得可能な能力の筈である。しかし原田家が代々可能とした業は、他人には到底習得はおろか理解すらし難いという代物だった。技術と呼べないならば、原田家の血によって受け継がれる才能としか言い様が無いのかもしれない。
それは、全てを見通す洞察力であった。凶悪な事件の下手人、天下を揺るがす陰謀から些細な失せ物、捜し人まで、規模の大小に拘らず隠された真実を白日の下に晒す力が、斎藤家には代々備わっていた。更に驚くことには、彼らは真実を得るために一切の調査を必要としなかった。では一体、如何なる仕組みで真実を知りうるのか。
森羅万象はみな変化流動して、あらゆるものが相互に、直接或いは間接的に関連を持っている。唐土にて胡蝶が羽ばたいたその空気の僅少たる揺らぎが、地球の裏側で暴風雨を発生させる引き金になり得るという。ならばこの世の全ては、現在目の前に存在する事象からだけでも読み解くことが可能なのではないか。塵ひと粒、露のひと滴、そういった些細なものですらあらゆる事象と相互に関連を持ち、その真実を語っているのである。自分自身の存在ですら、それが宇宙に存在する一つの現象である以上、求める真実の手がかりとなり得るのだ。
原田家の者が真実を見抜くのは、そういった理屈である。まず以て余人には理解しがたい。その理解不能な点が、彼らが役目を明かせぬ理由の一つである。また、その理由は他にもある。彼らはその技術を自由に使えるわけではないのだ。それは原田家当主の生涯において只一度と限られていた。それが死の間際なのである。そんな不自由な能力にて取り立てられたと知られれば朋輩の反感を招くというのも、また役目を明かせぬ理由の一つである。しかし何より彼らは、主君より他言を禁じられていた。


原田家がこの役目にて取り立てられたのは新左衛門より四代前、原田兵衛を始めとし、その経緯は当藩筆頭家老石井家にのみ伝えられている。当時の藩主頼直公は尚武の志向厚く、関ヶ原に参戦した先代から戦国の気風を色濃く受け継ぐ傑物であった。その武辺を称揚した秀忠公がかつて刀をひと振り下されたという。その刀、大原安綱は宝剣として城内の奥深く安置されていたが、これがある時盗難により紛失した。
下手人は明らかだった。この頃城下を騒がせていた浮雲小僧という泥棒がいたが、これが城内に忍び込んだ処を見つかり、大捕物の末に追い詰められたものの、隠し持った火薬で自爆して果てたという事件があった。幸い自爆したのは庭先だったので城自体にも人的にも然程被害は無かったし、生け捕りこそ不可能だったものの逃げ出す前に自爆したので、盗品が流出せずに済んだのは幸いであった。しかし城内を検めてみたところ、かの宝剣が忽然と消えていた。どうやら賊が盗み出し、逃げ切れないと知ってひとまず城内のどこかに隠したものと推測された。しかし肝心の隠し場所が判らない。家中総出で城内を隈なく捜し尽くしたが影も形も無い。ひょっとしたら既に城外へ持ち出されているのだろうか。そんな意見も囁かれた。
しかし絶対に紛失などあってはならない宝剣である。もし紛失が幕府に知れれば御家取潰しは免れぬ。皆血眼で躍起になって捜すが、畳を剥ぎ、天井裏を這いずり回っても見つからぬ。
そこに進み出たのが兵衛の父、原田甚右衛門だったという。
原田甚右衛門の出自ははっきりわからないし、何時から家中にいたのかも判然としない。一説によれば修験者の流れを汲むともいうが、原田家に受け継がれた異能を鑑みるに、根も葉もない説とも一概には言えないだろう。ともあれ、元は流れ者に過ぎなかったようである。甚右衛門はこの時四十ばかりの地味な男であったというが、その目立たぬ男がこの藩の一大事に際し主君に目通りを願った。宝剣の在り処を知っているという。
それを聞いた頼直公は、即座に詰め寄った。当家の存亡の危機である。直ちにその方の知るところを申せ、と。むしろ甚右衛門が下手人であるかの如き剣幕だった。
甚右衛門はその勢いにいささかも怯むことなく、こう言った。――畏れながら、その儀について申し上げる前に、御庭先を汚すことをお許し頂きたく存じまする。
何のことかは判らぬながら、必要なことならばと頼直公は承諾した。その答えを聞いた甚右衛門はするすると庭に降り立ち、ひざまづくと諸肌脱いだ。次いで脇差を抜き放ち、周囲があっと息を呑んだその次の瞬間、彼はその切っ先を己の左脇腹に突き立てたのである。突き立てたばかりではない。そのまま握った手を左から右へ回す。横一文字の切れ目が開いた。まるで大蝦蟇の口のようだったという。
急な修羅場に、居合わせた者の中には腰を浮かす者もあったが、皆一様に声はない。と、そこで最初に口を開いたのは誰あろう、割腹したばかりの甚右衛門である。紙のような顔色をした甚右衛門は、口から血を垂らしながら告げた。


――剣は、天守の屋根、北側の鬼瓦、その口中にあり申す。賊は、鬼瓦の口に前もって穴を穿ち、そこから瓦の下へ、剣を丸ごと、差し込んだのでござる。


そう言い終わると、甚右衛門はがくりと頭を垂れた。肩が苦痛に痙攣している。居合わせた者の中から、剣の手練で知られた木内又七郎が大股で歩み寄り、介錯した。
さて甚右衛門の言葉通りの場所を捜すと、確かに宝剣はそこにあった。しかし、なぜ甚右衛門がそれを知っていたかについては皆目わからない。本人に質すことは既に不可能である。もしや甚右衛門も賊の一味であったのだろうか。そこで頼直公は城下より甚右衛門の息子を召し寄せた。すぐにやって来た甚右衛門の息子、兵衛は泰然とした様子で原田家の秘密を語ったと言う。曰く、原田家の者は死の淵にある時、眼前のあらゆる謎を解き明かすことができる。死の世界に足を踏み入れたその時、現世の無明を脱し、隠された真相を見抜く眼を手に入れることが出来る云々。
……これを聞いたのは頼直公と筆頭家老石井監物だけであった。すぐに頼直公は原田家の異能について秘密とすること、原田家を代々取り立てることを家老石井との間に取り決めた。重大なる事件の解決がおぼつかぬ時、異能を以て真相と解法を明らかにする役である。内密の一事ゆえ役名は無かった。効果は覿面ながら、一代に一度しか使えぬ能力ゆえ、使いどころは家老石井に一任されることと決められた。それからというもの、代々の原田家当主は各々美事に役目を果たしてきたのである。一説によれば、由井張孔堂の乱を鎮めるに密かに功あったとも言う。


原田家には、代々伝わる独特の訓練法があった。彼らの功績は、決してその能力に寄りかかったものでは無い。彼らの業が半ば遺伝による才能だとしても、彼らはその業を確実に役立てるため、日頃の訓練を怠らなかったのである。とはいえ、訓練のために試みに腹を切るわけにもゆかない。ならば只一度の本番のために、彼らに出来ることとは何か。それは、いざ死ぬときに平静を保つことが出来るよう、精神を鍛えることであろう。機会が一度きりしかないため、それを役立てられなければ、扶持を下さる御主君に申し訳が立たぬ。申し訳が立たぬとて、もう失敗したその時には腹は既に切っているのだ。失敗は、絶対にありうべからざるものなのである。
ならば、腹を切ってからも死の影や苦痛に乱されることの無いよう、平素から精神を鋼のごとく鍛えておかねばならぬ。彼らはそう考えた。現代で言うイメージトレーニングである。朝目覚めると寝床に居直り、呼吸を整えて腹に手刀を当てる。そのまま瞑目し、息を止めると手を水平に動かす。腹が裂けてゆく触覚を、痛覚を想像する。血と腸が零れる様を幻視する。そうしてから一日の活動を始める。そして晩、寝床の上でもう一度行う。
これを毎日続ける。様々な状況での割腹を思い浮かべる。たまには縦に腹を裂いてみる。斜めに裂いてみる。介錯役が下手な場合を想定し、自分で頚動脈を切る。立ち会う御家老に血飛沫が掛かっては事なので御家老と逆の方向を切る。
そんなことを続けているうち、じきに彼らは夜、寝ている間にも割腹する夢を見るようになる。そこに至って、彼らは日に三度、死を体験することになる。月に九十度。年に三百六十度。十年で三千六百度。それだけの回数、彼らは死ぬ。
新左衛門も勿論、十にならぬうちから父に手ほどきを受け、それ以来毎日この習慣を欠かしたことは無い。そして今、新左衛門の息子は十を数えるまで成長している。新左衛門は彼の父がそうしたように、彼の息子にも原田家の役目の全てを告げ、同時に鍛錬法を伝授した。まだ幼い息子ではあったが、いつに無く真剣な父の面持ちから事の重大さを読み取ったようで、粛々とその重い宿命を受け入れたようだった。その夜から、息子もまたその鍛錬を開始した。
――これで、後は死ぬだけだ。
新左衛門は、奇妙な高揚を感じていた。


御役目の話が舞い込んで来たのは、それから僅か半年後のことであった。
解くべき謎は、先頃から城下を騒がす盗賊団についてである。火車党と名乗る彼らは城下の富裕な商家ばかりを狙い、何件もの大店から金品を略奪していた。その遣り口は極悪非道、歯向かう者や騒ぎ立てる者は非力な女子供と言えど容赦せず斬り捨てるという残忍な輩で、頭領の名は火車才蔵と言った。そんな派手な遣り口ではすぐに足がつきそうなものだが、残忍なことに加え彼らは非常に狡猾だった。決まった根城を持たず、巧妙に尻尾を掴ませない。捕方が血眼で走り回るのを嘲笑うように、被害だけが増える一方だった。
事態を重く見た筆頭家老石井主膳は、遂に原田の業を使って彼らを捕縛する方法を会得しようと決意したのである。


原田家の切腹は日没後の城内、中庭に場所を設けて行われることとなっている。立ち会うのは家老石井の他は記録役が一人と、介錯役が一人のみ。当然この二人には固く口止めがされている。藩主は伝統的に立ち会わぬことになっていた。介錯役は世襲ではなく、当代の手練から更に口の堅い者を選ぶ。今回は家中屈指の使い手と称される夢想流の達人、金田伊兵衛であった。
金田伊兵衛の腕前にはこんな逸話がある。ある夜、金田は遠出をした帰りにふと近道をした。鬱蒼とした林の中の一本道で、ここを通れば些か早く家に着く。月のない薄曇りの夜で、濃密な闇が伊兵衛を包んでいた。と、前方の斜めに見上げた辺りにぼんやりと青白い灯りが点った。伊兵衛が気にせずそのまま進んでゆくと、青白い灯りはふわりと浮かんで、次の瞬間真ッ逆様に伊兵衛目掛けて飛び掛ってきたという。伊兵衛は慌てず抜き打ちに斬りつけた。鍔鳴りと物凄い叫び声が相次いで響き、青白い灯りも消え失せた。伊兵衛は何事も無かったかのようにそこを通り過ぎ、帰宅したという。翌朝、その小道に一抱えほどもある巨大な青鷺が息絶えているのを附近の百姓が発見した。青鷺は、槍の様に尖った長い嘴を縦にひと筋、後頭部まで割られていた。昨夜伊兵衛に襲い掛かった鬼火は、この青鷺の吐く息だったのである。これ以来、伊兵衛は「鳥打ち金田」と呼ばれるようになったという。当然新左衛門もこの話を聞き知っている。――金田殿ならば、仕損じはあるまい。有難い事だ。
君主の寝所に向けて一礼、次いで家老石井に一礼した新左衛門が白装束の懐を開くと生白い腹部が現れたが、そこには既に真一文字の赤い筋が横切っているのが一段上にいる家老石井からも見えた。一見既に切腹済みのようなこの筋は、仔細に見れば傷ではなく赤く浮かんだ痣なのであるが、これは原田家の男に代々共通して見られるものであった。と言っても生まれつきこのような痣が備わっているのではない。例の「鍛錬」を毎日続けるうち、やがて手刀でなぞる部分が赤く色を帯びてくるのである。それは単純に手でなぞった刺激のせいかも知れないし、或いはそれに伴う開腹のイメージが身体に痣と言う形で表れたのかも知れなかった。まるでこの痣の通りに刃を入れれば上手くゆく、とでも言うかのように。
さて新左衛門は愈々目の前に置かれた脇差に手を掛けると、それを腹部の前に構えた。実を言えば、この時新左衛門の胸中は奇妙な感動に打ち震えていた。――今迄自分は、原田家の者は、この瞬間のためだけに生かされてきたのだ。この生命、愈々御主君に御返しする時がやってきたのだ。今生、己に出来ることと言えば最早、この場にて腹を掻っ捌くのみ。いざ。
力を込めようとしたその刹那、その場に乱入した者があった。伝令である。人払いはしてあるはずだったが、余程緊急の報せであるようだった。
――火車党、捕縛せられり。
家老石井は火車党について、出来る限りの情報収集を行っていた。捕縛の報せが緊急に届いたのもそのためである。火車党は内部の裏切りにより組織が破綻、分裂し、密告によって御用となったという。あれほど世間を騒がせた一味にしては、呆気ない幕切れだった。
そして、最早今回新左衛門が腹を切る理由も消失してしまったことになる。彼は、脇差を握ったまま呆然と月を仰ぐばかりだった。


新左衛門が実際に腹を切ったのは、この時から十年の後だったという。藩主直正公の跡目を巡る御家騒動に関する役目だったとされるが、詳細は伝えられていない。恐らくは藩の醜聞に触れる役目だったからであろう。また、彼以降の原田家が同じ役目を果たし続けたかどうかも、記録には残っていない。
ただ、幕末に活躍した新撰組の、十番隊組長原田左之助の腹に、切腹した痕とされる一文字の傷があったという。ここに新左衛門の血筋を見るのは、筆者の勝手な妄想であろうか。


wikipedia:原田左之助
探偵百傑 - 文投げ部

死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)

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