並ぶもの

Kさんは高校生の頃、社会人の男性と付き合っていた。
彼の住むアパートを訪ねたある日、夕方に二人で近所のコンビニまで行った。
部屋に戻る途中に車の販売店があり、ガラス張りのショーウィンドウがある。
そのガラスに映った自分たちの姿を何気なく見たKさんだったが、違和感を覚えて視線を逸らせなくなった。
ガラスの中の自分の前後に、行列が見えるのだ。しかし実際自分の近くには彼がいるだけで、前後に誰も並んでなどいない。
並んでいるのはみな若い女性だ。こちらからは横顔しか見えないが、みな無表情のようだ。
Kさんがまじまじと注視しているので彼もガラスに目をやったが、特に気にした様子もなく視線をKさんに戻した。何見てんの? と穏やかに聞いてくる。どうやら彼には見えていないらしい。
私にしか見えてないの、と慌てたKさんは言葉を濁してその場を後にした。
部屋に帰って買ってきたもので夕食を済ませた後のこと。
彼がトイレに入っている間に彼の携帯が鳴った。電話だよ、と彼に声をかけようとしたとき、着信音が止んだ。
「はい、――です」
誰かが電話に出た声がする。女の声だ。
目の前には誰もいない。携帯の表示を見ると通話中だ。誰と誰が話しているのか。
彼はまだトイレから出てこない。
先程の行列のこともあり、急に怖くなった。トイレのドアに向かって、もう帰るねと呼びかけて返事を待たずに部屋を飛び出した。
その彼とはそれから半年ほど後に、彼の浮気が原因で別れた。


気になっていることがひとつあるという。
あのとき電話に出た声が何と名乗ったか、はっきり聞いていたはずなのにどうしてもその名前が思い出せないらしい。
知らないままのほうがいいのかもしれないけど、とKさんは語った。

窓を開けたら

Nさんには高校時代からのSという友人がいた。あるときSが入院したと伝え聞いた。
話によると、少し前に奥さんが浮気した挙句に出ていって、Sは酷く気を落とした様子だった。そのせいなのか体調まで崩し、検査で癌が見つかったという。
高校生の頃から明るいムードメーカーだったSがそんなことになっているとは、とショックを受けたNさんはすぐに見舞いに行った。
病室のSは予想していたより元気に見えた。
以前よりは痩せていたが、顔色は良い。よう久しぶり、と笑顔でNさんを迎えてくれた。
癌と言ってもこの通り大したことはないから、じきに退院できるよ。そしたら飲みに行こうぜ。
そんなことを話すので安心したNさんは笑顔で病院を後にした。


それからしばらくは会いに行かずにいたのだが、三ヶ月経ってもまだ退院の報がない。
Sはあんなふうに気楽なことを言っていたが、症状が芳しくないのかもしれない。
そこでまた会いに行ってみると、今度は面会謝絶で顔を見ることができなかった。
やはり悪化しているのだと知ったNさんはそれからずっとSを心配していたが、そこからまたひと月ほど経った頃のこと。
朝起きてスマホを見たNさんは、不在着信が入っていることに気がついた。
公衆電話からの発信で、録音も入っている。もしかしてSか、と閃いたNさんはすぐに再生してみた。


「久しぶりN。この前は来てくれてありがとうな。ゆうべちょっと変なことがあってさ。妙に寝苦しくて夜中に目が覚めたんだ。暑いから窓を開けたら、誰かがいるんだよ。目を閉じて眠ってる顔が見えるの。誰なんだと思ってよく見たらなんか知ってる顔なんだよ。なんか見たことあるんだけど、誰だったかよく思い出せないんだ。一体誰だったのかなあ。ああいや、悪いなこんな変な話して。変な体験だったから誰かに話しておきたくなってさ。じゃあまたな」


Sの声ははっきりとして落ち着いた口調だったが、内容は不可解だった。
電話をかけてこれるくらいには元気なようだが、どうもこれは何かがまずいのではないか。Nさんは明日にでもまた見舞いに行こうと決めたが、その日のうちに友人から連絡が来た。
Sが病院で亡くなったという。
葬儀で目にした棺の中のSは、四ヶ月前に会った時よりもずっとやつれていた。目は落ちくぼみ、頬は鑿で荒く削ったようにえぐれ、まるで骸骨だ。
こんな状態で、亡くなるほんの直前に電話をかけてくることが果たして可能だっただろうか?
そんな疑問が拭えず、改めてスマホを確認すると、あの録音も不在着信記録も見つからなかった。あれは夢か何かだったのだろうか。

しかしNさんは録音で聞いたSの声を今でもはっきりと思い出せるという。

路地から山

Kさんが日曜に彼氏のアパートを訪ね、夕方まで一緒に過ごしてから一人で帰るその途中のこと。
最寄りの駅への近道となる路地を進んでいくと、前方の電柱の側に誰かが立っていることに気付いた。
茶色の背広を着た男の人だ。
他に人の姿もないし、これは違う道を通ったほうがいいかなとも考えた。
しかしまだ明るいし、こちらに背を向けているからまだこっちは見えていないはずだ。変質者と決まったわけでもないし、早足で通り抜ければ大丈夫だろうとそのまま歩いていった。
すると近づくにつれて前方の男の人がだんだん大きく見えてくる。
近づいたから大きく見えてきたというのではなく、実際に背が伸びている。
傍の電柱や塀に比べて明らかに先程より大きくなっている。大きくなっているというか、縦に伸びている。
思わず立ち止まったが、男はそのままするすると伸びていく。
更に奇妙なことに、男の向こう、路地に面した建物越しに夕日に照らされた山が見えた。
その方角に見える山などないはずだ。
これはまずい。なんだかわからないけどとにかくまずい。
慌てて踵を返し、彼氏の部屋まで戻り、その路地を避けるルートで駅まで送ってもらったという。

水中メガネ

東京から北海道に帰省する、大洗から苫小牧行きのフェリーでのこと。
夕方に甲板を散歩しながら、ふと海面に視線を落としたところで波間に何か白くて丸いものが見えた。
顔だ。水中メガネを着けた人の顔が船を見上げている。
頭には白い水泳帽を被っていて、顔だけで性別はわからなかったが、水面下の肩に水着の肩紐らしきものが見えたのでおそらく女性だと思った。
水中メガネのせいで目が合ったかどうかはわからない。
溺れているのか、助けが必要か、と考えたところでその人は身を翻してフェリーから離れてゆき、すぐに波にまぎれて見えなくなった。
一応すぐに船員に報告したのだが、その人は水中メガネを着けていたと話すと、こんな陸地から離れたところに泳いでいる人はいないと思いますよ、と怪訝な顔をされた。
スマホで現在位置を確認すると陸地から二〇km以上は離れた太平洋上だった。水着で泳いでいる人がいるのは確かに考えにくい。見える範囲で他の船もなかった。フェリーから落ちた人もいないようだ。
後で友人にその話をすると、見えないところに潜水艦がいたか、あるいは人魚だったんだろうという。
まあ人魚が水中メガネを着けてるのもおかしいか、と友人は笑った。

危険な拾い物

現在大学生のFさんが小学三年生の時の話だという。
友達三人で下校中、リーダー格のT君が変な声を上げて道端にしゃがみこんだ。
すげえの落ちてるぞ、と言うのでFさんたちも覗き込むと、ガードレールの根本に黒い角張ったものが見えた。
鈍く黒光りする拳銃だ。
本物かな、エアガンだろ、などと口々に言い合ったが、すぐにT君が手を伸ばして拾い上げた。
重いぞこれ、本物かもよ。
手渡されてFさんも持ってみると確かにずっしりと重い。もうひとりの友達にも渡したところ、やはり重さに驚いている。
おもちゃの銃がこんなに重いだろうか。本当に本物なのかもしれない。
そう思うと、撃って確かめてみたいという気持ちが湧いた。小学生男子としては、本物だったら危険だという心配よりも好奇心のほうがずっと強かった。
後の二人も同じ気持ちだったようで、そのまま寄り道して近くの川に行くことになった。もし本当に弾が出ても、川の水面に向けて撃つなら危なくないだろうという判断だった。
いつも人気の少ない川だが、この時も都合よく誰の姿もなかったので、すぐにT君が両手で銃を構え、水面に向かって銃爪を引いた。
予想していた本物の銃らしい破裂音も、モデルガンらしい軽い音もしなかった。
代わりにT君が握っていたそれを情けない声とともに放り出した。
川べりの土に落ちたそれは拳銃などではなく、腐りかけた猫だった。急に悪臭が鼻をついた。
確かに拳銃を拾ったはずなのに、それが突然猫の死骸に変わった。どういうことなのかさっぱり理解できない。
拳銃を触った手がいつの間にか毛の混じった汚い汁でべたべたになっていて、みんな慌てて川の水で洗った。
うんざりしながら家に帰ったときにもまだ臭いが取れておらず、あんた外で何してきたの! とお母さんからひどく怒られたという。

パフェ

Nさんが小学三年生のときのこと。
家でひとり留守番していると、祖父がふらりと訪ねてきた。
「おう、久しぶりだなあ」
祖父がそう言って朗らかな笑顔で玄関先に立っていたのをよく覚えている。
言葉の通り、Nさんが祖父に会うのはしばらくぶりだったので嬉しくなり、家に上がってもらおうとした。
すると祖父はこれから知り合いのところに行く用事があるからゆっくりできないという。
「どうだ、じいちゃんと一緒に来るか? 何か美味いものでもおごってやろう」
せっかくの祖父の提案だ。家は戸締まりしておけばいい。
それからタクシーに乗って二人で行ったのは市内にある寺と、祖父の友人宅らしい邸宅だった。
寺では住職と、邸宅では友人と、祖父はそれぞれ十五分程度会話し、Nさんはそれを傍らで黙って聞いていた。
その二軒を回ってから喫茶店に寄ってパフェをご馳走してもらった。
パフェなど普段は両親になかなか食べさせてもらえない。Nさんが喜んで食べるところを祖父は嬉しそうに眺めていた。
茶店を出て二人はまたタクシーで帰宅した。お父さんとお母さんが帰ってくるまで待ってれば、とNさんが言うと祖父は残念そうに首を横に振った。
「これからちょっと用事があるからもう行くよ。お父さんとお母さんによろしくな。しっかり勉強するんだよ」
そう言い残して祖父はタクシーから降りずに去っていった。


その夜、母が帰ってきたのは七時頃で、随分切羽詰まった顔をしていた。
すぐ病院に行くから支度しなさい。おじいちゃんが危篤なの。
そこでようやくNさんは思い出した。会うのが久しぶりだったのは、祖父がずっと入院していたからだった。
どういうわけか今日はそれを思い出さないまま、祖父が元気に歩き回っているのを当たり前のように受け入れていた。
病室に入った時祖父はまだ息があったようだが、口を酸素マスクに覆われたままベッドに横になり、目を閉じてぴくりとも動かなかった。
そのまま意識は戻らず、日付が変わる前に祖父は帰らぬ人となった。


葬儀にはあの日訪ねた寺の住職と祖父の友人もやってきたが、直接話す機会がなく、Nさんはあの日本当に祖父と一緒に訪ねたかどうか確かめることはできなかったという。

床の間

Hさんの祖母が亡くなった。脳卒中による入院中に肺炎を起こし、容態が急変して親族が集まる間もなく息を引き取ったので、Hさんも祖母を看取ることはできなかった。
葬儀が済んで一ヶ月ほど経ったある夜、Hさんがベッドに横になると耳元で声がする。
「誰か、ねえちょっと」
祖母の声だ。
驚いて身を起こすともう聞こえない。
気のせいだろうか、と思って改めて横になる。
「いるんでしょ、誰か、ねえ」
やはり聞こえる。起き上がると聞こえなくなるのだろうか?
そのままの体勢で耳を澄ます。返事をしようかどうか迷った。本当にこれは祖母なのか。
「あのねえ、ちょっと聞いてほしいんだけど」
声は枕の下のほうから響いてくる。枕の下を手で探ってみようかと腕を持ち上げたが、変なものに触れてしまったらどうすると思い直してやめた。
仮に枕の下に普通ではない何かがあるのなら、そのまま枕に頭を預けていること自体怖いのだが、その時はそこまで考えが及ばずに祖母の声を聞き取ろうとしていた。
「うちの和室の床の間なんだけど、柱を拭くの忘れてたのよね、できたら拭いておいてくれない」
床の間の柱? 祖母が生前にとりわけ気にかけていたようには見えなかったが、何かあるのだろうか。
するとそこで、女性らしき別の声が割って入ってきた。
外国語らしく、何と言っているのか理解できない。はっきりわからないが、東南アジア方面の言語のように聞こえたという。
祖母らしき声は普通にその声に返事をしている。
「ああそうなの? それはこうしたらいいかしらねえ」
それきり声は聞こえなくなった。起きて枕を持ち上げてもシーツしか見えない。
翌日Hさんは実家に寄って床の間の柱を雑巾で拭いておいたが、その後特に変わったことはなかった。