印刷所

印刷会社で働くFさんは会社の二階にある事務室で仕事中、強い眠気を覚えた。
寝不足だったわけでもなければ、特に疲れていたというわけでもない。
調子がおかしいなと思いつつ、同僚にトイレに行ってくると告げて事務室を出た。
トイレの手洗い場で顔を洗い、ついでに一階に下り、外にある自販機で缶コーヒーを買って事務室に戻った。
しかし様子がおかしい。
先程まで事務室にはNさんの他に四人の社員がそれぞれの机で仕事をしていた。それが全員いない。
部屋を間違えたかとも疑ったが、Fさんの机はちゃんとあって先程までやっていた作業もそのままになっている。間違いなくその場所はいつもの事務室だ。
同僚や上司の机も仕事がやりかけの様子で、ただ人だけがそこからいなくなっている。
何か急を要する連絡があって、みんな揃ってそちらに向かったのだろうか。そう考えたFさんは一階の奥にある印刷所を覗いてみようとした。
階段を再び降りて印刷所のドアを開けたところで、Fさんは目を疑った。
そこには印刷所ではなく、今しがた後にしたはずの二階事務室の光景があった。同僚たちもいて、当たり前のように仕事をしている。
そんな馬鹿な、今階段降りて印刷所に来たよね、とFさんは背後を確かめたが、こちらも一階ではなく二階の廊下になっている。
混乱しながら自分の机に戻ってみると、先程買った缶コーヒーが置かれている。トイレに行った後に間違いなく自分は事務室に戻っている。その後で事務室を出て階段を下り、印刷所に向かったのも確かなはずだ。
しかしなぜ今自分が事務室にいるのかがわからない。
隣の同僚に、自分がトイレから戻るまでに事務室から出たかと尋ねてみたが、ずっとここにいたという返事だった。改めて一階に行ってみると今度は何事もなくいつもの印刷所に入ることができた。
もしかすると自分の頭がどうにかなったのかと不安になったFさんは翌日に急遽休みを取って病院に行ってみたが、検査の結果特に異常は見つからなかった。
その後特におかしなことは起きていないが、この時の出来事だけはFさんにとって全く納得できていないという。

屋根瓦

 

Tさんの家は台風で屋根に被害が出た。
災害保険の申請のために、Tさんは隣の家の二階に上がらせてもらって自宅の屋根の被害状況を写真に収めた。
裏返った瓦、剥がれて落ちてしまった瓦、めくれはしないものの浮いてしまった瓦など、少なくない被害があり、Tさんはそれをスマートフォンのカメラで撮影した。
自宅に戻って写真を確認していたところ、よくわからないものが写っていることに気がついた。
浮いてしまった瓦の辺りを撮影した一枚に、何か箱のようなものが写っている。
瓦の大きさに比べるとおそらくは手のひらサイズくらいの、黄色い立方体だ。それが浮いた瓦の上に載っている。
撮った時には気が付かなかった。目の前にこんなものがあれば気づかないはずはなかったのに。
なんだこれは、と思いながら同じアングルで直後に撮った次の写真を見ると、こちらにも同じものが写っている。
だが位置が違う。二枚隣の瓦の上に移動している。
箱がひとりでに動いている? そもそもこれは箱なのか?
次の写真も同じアングルだが、こちらにはもう箱は写っていなかった。どこかに行ってしまったのだろうか。
保険会社には箱が写っていない写真を提出した。


箱が写っている写真は後で友人に見せてやろうと思っていたところ、後でもう一度見てみたらどの写真にも黄色い箱などどこにも見当たらなくなっていたという。

サンタさん

二十年ほど前のクリスマスイブのこと。
Kさんは自宅で四歳の娘と夕食を取っていた。
夫は仕事で遅くなるということで二人だけだったが、せっかくのクリスマスなのでケーキくらいは用意した。
娘はケーキを頬張ってすっかりご機嫌だったが、半分くらい食べたところで急に立ち上がり、窓の方に駆け寄った。
サンタさん来る!
目を輝かせてそんな事を言う。
予定より早く夫が帰ってきたのかと思ったが、車が戻った様子はない。
娘が言っているのは何のことだろうと思いながらKさんも窓の傍に立ったところで、すぐ近所から大きな音が響いてきた。

 

ガランガランガラン!

 

それを聞いた娘が更に興奮した様子で叫ぶ。
ほらサンタさん!
しかしその音はサンタクロースの鈴の音というよりは、神社の鈴を力一杯激しく鳴らしたようなけたたましい音だ。
うるさいなあ、こんな時間に一体何なの、と窓の外に目を凝らしたものの、暗くてよくわからない。少なくとも人の姿や車などは見えなかった。
鈴の音はだんだん近づいてくる。何が来るのかKさんは少し不安になったが、娘は嬉しそうに窓の外を眺めている。何かが見えているのだろうか。
すると音は近づいてくるにつれて次第に上の方から聞こえてくるように感じられてきた。そしてそのまま頭上を通り過ぎ、やがて遠ざかって聞こえなくなった。
――飛んでいった? 何が?
上の方に消えていった以上、車や歩行者ではありえない。
サンタさん行っちゃったねー、と娘は残念そうに言う。
いい子にしてればサンタさんちゃんと来てくれるよ、とKさんは誤魔化したが、音の元が何なのかは皆目見当がつかない。
そもそも娘が反応したのは音が聞こえてくるより前のことだった。
娘にどうして「サンタさん」が来ることがわかったのか聞いてみても、説明は全く要領を得なかった。


後日隣近所にイブのことを尋ねてみたが、誰もそんな音は聞いていなかったという。

うろの中

幼い頃から小動物が好きだったOさんはよく虫取りに行った。
中学校の裏手が森になっていてそこで虫がよく取れるので、Oさんは頻繁にそこへ行っていた。


小学生の頃のOさんが夏のある日この森に行ったが、どうにも虫が見当たらない。
石をどかしても落ち葉をかきわけても、せいぜいダンゴムシが数匹見つかるくらいで、大物がいない。
何かいないかなあ、と見回してみると、ふとすぐ傍の木にうろ穴が開いているのを見つけた。
穴の中に何か生き物が隠れているかもしれない、と考えたOさんは、持っていた網の柄でうろ穴を突いてみた。
するとガサガサッという音に続いて、カマドウマが数匹慌てて穴から飛び出してきた。
なんだカマドウマかあ、と拍子抜けしたところ、続いてうろ穴の中に何か白いものが動いた。
小さな手だった。
人の手がうろ穴の中でひらひらと動いたかと思うとまたすぐに引っ込んでしまった。
うろ穴はせいぜい十センチくらいの大きさしかない。
その中で動いていた手は穴よりもっと小さくて、Oさんの指一本分くらいにしか見えなかった。
しかし確かに人の腕の形をしていたように見えた。
もしかすると全く知らない珍しい生き物じゃないだろうか。
わくわくしながら顔を近づけて穴を覗き込んでみたが、中は暗くて何も見えない。
もう一度網の柄を突っ込んでみようと網を持ち直したところで、ひゅっと何か大きなものが鼻先をかすめた。足元でどさりと重い音が鳴る。
腕くらいある太さの木の枝が目の前に突然落ちてきたのだ。直撃していたら大怪我をしていただろう。
今までその森で虫取りをしていて、そんな大きな木の枝が落ちてきたことなど一度もなかった。
何となく――森が先程の小さな手を探すなと言っているような気がして、Oさんは逃げるように森を出た。


半月ほどしてまた森に入ったOさんだったが、同じ木のところに行ってみても、うろ穴などどこにも開いていなかったという。

洞窟

Yさんが彼氏と二人で旅行したときのこと。
ホテルに泊まったその夜、Yさんはふと目を覚ました。時計を見るとまだ深夜だ。
なぜこんな時間に目が覚めたのだろう、疲れていたから眠りが浅かったのだろうか。
そんなことを考えながらまた眠ろうと思ったが、ふと違和感を覚えた。ダブルベッドで隣に寝ていた彼氏の姿がない。
トイレにでも行ったのだろうか、その気配で自分も目が覚めたのかな、と思ったが数分しても彼が戻ってこない。
どこに行ったのだろう、まさか外出したのだろうか、でもどこに?
暗い部屋の中でひとりそんなことを考えていたところ、ベッドが突然振動した。
下から誰かが叩いている。何か声も聞こえる。
驚いて固まったYさんだったが、よく聞いてみると彼の声のようだ。
誰かいませんか! 出してくれえ!
慌ててベッドを降りて声をかけると、ベッドの下から間違いなく彼の声で返事があった。
ベッドの脇には隙間がないので出られない。ベッドを持ち上げなければならないが、Yさんの力ではとても無理だった。
とりあえずフロントに電話をして従業員にベッドを持ち上げてもらい、ようやく彼は脱出することができた。


彼の話では、いやな夢を見たのだという。
山の中で何か大きい動物に追われて必死で逃げていると、目の前に小さな洞窟が見えた。
あれに逃げ込めば動物は追ってこれない、と思って頭から滑り込むように飛び込んだ。
確かに動物はそれ以上追ってこなくなったが、ふと気がつくと真っ暗で狭いところに身体がはまり込んでしまっていた。
追われないのはいいが、これでは自力で抜け出すこともできない。
誰か近くにいないかと呼びかけながら周りを叩いたところでYさんの返事があった。
いつベッドの下に入り込んだのかはさっぱりわからないという。


夢の内容はともかくとして、どうやってベッドの下に入り込んだのかがわからない。
ベッドの脇に人が通れるほどの隙間がないので、下に潜り込むにはベッドを持ち上げなければならない。
しかしYさんが寝ていたのだから、持ち上げれば気づかないはずがない。
一体どういうことなのかそれから何年も経った今でも見当がつかないという。

防災倉庫

Nさんの実家のある街に防災倉庫と呼ばれる建物がある。
コンクリート製で箱型の建物で、街の隅に位置する公園に隣接している。
防災倉庫と呼ばれている通りにかつては地区の防災用品や備蓄品を収めた倉庫だった。公園に隣接して建てられたのはその公園が地区の避難所のひとつだったからだ。
しかし、後にハザードマップ作成のための調査が行われると、その場所は水害が起きたときに浸水する恐れがある、ということが判明し、急遽もっと高い場所に新しい倉庫が建てられることになった。
古い方の倉庫は空になったまま、今でも取り壊されずに存在している。


故あって会社を辞めたNさんが実家に戻ったのは二年前の初夏だった。
蝉がやかましく鳴く蒸し暑い日が続いていたが、しばらく里帰りもしていなかったから久しぶりの地元が懐かしく、日が傾いてきた時刻を見計らって買い物がてら散歩に出た。
すると公園の近くを通りかかったとき、蝉の声に交じってかすかに甲高い笛のような音が聞こえてきた。気のせいだろうかと思ったが、やはりどこかで細く高い音が鳴っている。
公園に近づくにつれて、それは笛の音ではなく幼い子供の泣き声だと気がついた。何かあったのだろうかと、Nさんは声のする方へと早足で向かった。
すると公園の奥、防災倉庫の扉の前に女の子がひとりしゃがんで泣いているのが見えた。
近寄って声をかけてみたが、その子は顔を上げずに泣き声を上げ続ける。
どこか怪我でもしているのだろうか、とよく見てみると、その子の右腕が倉庫の扉にめり込んでいた。
見間違えかと思って目を凝らしたが、確かに腕が金属の扉に刺さっているというか、貫通しているようにしか見えない。扉に穴が開いていて、そこに腕がぴったり嵌まっているのだろうか。
腕が抜けなくなっちゃったの? と女の子に話しかけたが、聞こえていないかのように無反応で泣き続けている。顔を上げようともしないばかりか、しゃがみこんだままぴくりとも動かない。
ただ喉の奥を鳴らすような甲高い泣き声だけが辺りに響いている。本当にこの子が泣いているのだろうか。
そういえば、とその時Nさんは気がついた。つい先程まであれほど聞こえていた蝉の声が、いつの間にか完全に止んでいる。
周囲には他に誰の姿もない。
一体この子は何なのだろうか。これは生きた人間なのか。
急に気味が悪くなったNさんは、後ろも振り返らずに公園から走って逃げ出した。
そのまま実家まで戻り、一息ついてみると家の周りでは蝉の声が聞こえている。
落ち着いて考えてみると、やはりあれは腕が抜けなくて困っている子供だったのではないかという気がしてきた。
そうだとすればこれから暗くなる時刻だ。放っておくわけにもいかない。
そこで家にいた母親と一緒にもう一度防災倉庫まで行ってみたが、大きな南京錠のかかった扉には穴など開いておらず、先程の女の子の姿もなかった。
その時には蝉の声がうるさいくらいだったという。

工房

退職後に趣味で陶芸を始めた人の話。
軽い気持ちで始めたところ随分熱中してしまって、ついには山中の空き家を買って窯を設置し、工房にしてしまった。月に十日ほど、一人でそこに籠もって作品制作に没頭するのだという。
ところがその工房で頻繁におかしなことが起こる。
真夏なのに外で雪を踏むような足音が一晩中した、天井裏で何かを引きずるような音が横切っていった、土砂降りの雨音が聞こえたので洗濯物を取り込もうと外に出ると晴天で地面も濡れていなかった、等々。
ほとんどが奇妙な音のたぐいなので大して気にせず過ごしていたのだが、そのうちにこんなことがあった。
作業場で土を練っていたところ、背後の扉が開く音がしてふわっと風が吹き込んできた。
続けて「ふぅーっ……」と誰かの溜息が聞こえる。
なんだ誰が来たんだ、と思って横目で後ろを見たが、誰もいないどころか扉も閉じたままだ。
いつものやつか、と拍子抜けしながら視線を土に戻したところで仰天した。
こねていた土のちょうど真ん中に人の足跡がひとつ、はっきりとついている。
小さな子供の、裸足の足跡だった。足裏のしわまでくっきり見える。
これには怖いとか不気味だとか思うよりも、まず頭にきた。
大事な作品の材料になんてことをしてくれる、とすっかり頭に血がのぼって大声で怒鳴りつけた。

 


てめえふざけるなよ! 次にこんなことしやがったらただじゃ済まさねえからな!

 

むかむかしながらも土をこねる作業を再開したが、後になってから少し惜しいことをしたと思った。
足跡を携帯で撮影しておけば、幽霊の足跡だと言って誰かに見せてやれたのに――。


その人は今もその工房を使っている。
怒鳴ったのが効いたのかどうかは不明だが、それ以来奇妙なことが起こる頻度はすっかり少なくなったという。