うろの中

幼い頃から小動物が好きだったOさんはよく虫取りに行った。
中学校の裏手が森になっていてそこで虫がよく取れるので、Oさんは頻繁にそこへ行っていた。


小学生の頃のOさんが夏のある日この森に行ったが、どうにも虫が見当たらない。
石をどかしても落ち葉をかきわけても、せいぜいダンゴムシが数匹見つかるくらいで、大物がいない。
何かいないかなあ、と見回してみると、ふとすぐ傍の木にうろ穴が開いているのを見つけた。
穴の中に何か生き物が隠れているかもしれない、と考えたOさんは、持っていた網の柄でうろ穴を突いてみた。
するとガサガサッという音に続いて、カマドウマが数匹慌てて穴から飛び出してきた。
なんだカマドウマかあ、と拍子抜けしたところ、続いてうろ穴の中に何か白いものが動いた。
小さな手だった。
人の手がうろ穴の中でひらひらと動いたかと思うとまたすぐに引っ込んでしまった。
うろ穴はせいぜい十センチくらいの大きさしかない。
その中で動いていた手は穴よりもっと小さくて、Oさんの指一本分くらいにしか見えなかった。
しかし確かに人の腕の形をしていたように見えた。
もしかすると全く知らない珍しい生き物じゃないだろうか。
わくわくしながら顔を近づけて穴を覗き込んでみたが、中は暗くて何も見えない。
もう一度網の柄を突っ込んでみようと網を持ち直したところで、ひゅっと何か大きなものが鼻先をかすめた。足元でどさりと重い音が鳴る。
腕くらいある太さの木の枝が目の前に突然落ちてきたのだ。直撃していたら大怪我をしていただろう。
今までその森で虫取りをしていて、そんな大きな木の枝が落ちてきたことなど一度もなかった。
何となく――森が先程の小さな手を探すなと言っているような気がして、Oさんは逃げるように森を出た。


半月ほどしてまた森に入ったOさんだったが、同じ木のところに行ってみても、うろ穴などどこにも開いていなかったという。

洞窟

Yさんが彼氏と二人で旅行したときのこと。
ホテルに泊まったその夜、Yさんはふと目を覚ました。時計を見るとまだ深夜だ。
なぜこんな時間に目が覚めたのだろう、疲れていたから眠りが浅かったのだろうか。
そんなことを考えながらまた眠ろうと思ったが、ふと違和感を覚えた。ダブルベッドで隣に寝ていた彼氏の姿がない。
トイレにでも行ったのだろうか、その気配で自分も目が覚めたのかな、と思ったが数分しても彼が戻ってこない。
どこに行ったのだろう、まさか外出したのだろうか、でもどこに?
暗い部屋の中でひとりそんなことを考えていたところ、ベッドが突然振動した。
下から誰かが叩いている。何か声も聞こえる。
驚いて固まったYさんだったが、よく聞いてみると彼の声のようだ。
誰かいませんか! 出してくれえ!
慌ててベッドを降りて声をかけると、ベッドの下から間違いなく彼の声で返事があった。
ベッドの脇には隙間がないので出られない。ベッドを持ち上げなければならないが、Yさんの力ではとても無理だった。
とりあえずフロントに電話をして従業員にベッドを持ち上げてもらい、ようやく彼は脱出することができた。


彼の話では、いやな夢を見たのだという。
山の中で何か大きい動物に追われて必死で逃げていると、目の前に小さな洞窟が見えた。
あれに逃げ込めば動物は追ってこれない、と思って頭から滑り込むように飛び込んだ。
確かに動物はそれ以上追ってこなくなったが、ふと気がつくと真っ暗で狭いところに身体がはまり込んでしまっていた。
追われないのはいいが、これでは自力で抜け出すこともできない。
誰か近くにいないかと呼びかけながら周りを叩いたところでYさんの返事があった。
いつベッドの下に入り込んだのかはさっぱりわからないという。


夢の内容はともかくとして、どうやってベッドの下に入り込んだのかがわからない。
ベッドの脇に人が通れるほどの隙間がないので、下に潜り込むにはベッドを持ち上げなければならない。
しかしYさんが寝ていたのだから、持ち上げれば気づかないはずがない。
一体どういうことなのかそれから何年も経った今でも見当がつかないという。

防災倉庫

Nさんの実家のある街に防災倉庫と呼ばれる建物がある。
コンクリート製で箱型の建物で、街の隅に位置する公園に隣接している。
防災倉庫と呼ばれている通りにかつては地区の防災用品や備蓄品を収めた倉庫だった。公園に隣接して建てられたのはその公園が地区の避難所のひとつだったからだ。
しかし、後にハザードマップ作成のための調査が行われると、その場所は水害が起きたときに浸水する恐れがある、ということが判明し、急遽もっと高い場所に新しい倉庫が建てられることになった。
古い方の倉庫は空になったまま、今でも取り壊されずに存在している。


故あって会社を辞めたNさんが実家に戻ったのは二年前の初夏だった。
蝉がやかましく鳴く蒸し暑い日が続いていたが、しばらく里帰りもしていなかったから久しぶりの地元が懐かしく、日が傾いてきた時刻を見計らって買い物がてら散歩に出た。
すると公園の近くを通りかかったとき、蝉の声に交じってかすかに甲高い笛のような音が聞こえてきた。気のせいだろうかと思ったが、やはりどこかで細く高い音が鳴っている。
公園に近づくにつれて、それは笛の音ではなく幼い子供の泣き声だと気がついた。何かあったのだろうかと、Nさんは声のする方へと早足で向かった。
すると公園の奥、防災倉庫の扉の前に女の子がひとりしゃがんで泣いているのが見えた。
近寄って声をかけてみたが、その子は顔を上げずに泣き声を上げ続ける。
どこか怪我でもしているのだろうか、とよく見てみると、その子の右腕が倉庫の扉にめり込んでいた。
見間違えかと思って目を凝らしたが、確かに腕が金属の扉に刺さっているというか、貫通しているようにしか見えない。扉に穴が開いていて、そこに腕がぴったり嵌まっているのだろうか。
腕が抜けなくなっちゃったの? と女の子に話しかけたが、聞こえていないかのように無反応で泣き続けている。顔を上げようともしないばかりか、しゃがみこんだままぴくりとも動かない。
ただ喉の奥を鳴らすような甲高い泣き声だけが辺りに響いている。本当にこの子が泣いているのだろうか。
そういえば、とその時Nさんは気がついた。つい先程まであれほど聞こえていた蝉の声が、いつの間にか完全に止んでいる。
周囲には他に誰の姿もない。
一体この子は何なのだろうか。これは生きた人間なのか。
急に気味が悪くなったNさんは、後ろも振り返らずに公園から走って逃げ出した。
そのまま実家まで戻り、一息ついてみると家の周りでは蝉の声が聞こえている。
落ち着いて考えてみると、やはりあれは腕が抜けなくて困っている子供だったのではないかという気がしてきた。
そうだとすればこれから暗くなる時刻だ。放っておくわけにもいかない。
そこで家にいた母親と一緒にもう一度防災倉庫まで行ってみたが、大きな南京錠のかかった扉には穴など開いておらず、先程の女の子の姿もなかった。
その時には蝉の声がうるさいくらいだったという。

工房

退職後に趣味で陶芸を始めた人の話。
軽い気持ちで始めたところ随分熱中してしまって、ついには山中の空き家を買って窯を設置し、工房にしてしまった。月に十日ほど、一人でそこに籠もって作品制作に没頭するのだという。
ところがその工房で頻繁におかしなことが起こる。
真夏なのに外で雪を踏むような足音が一晩中した、天井裏で何かを引きずるような音が横切っていった、土砂降りの雨音が聞こえたので洗濯物を取り込もうと外に出ると晴天で地面も濡れていなかった、等々。
ほとんどが奇妙な音のたぐいなので大して気にせず過ごしていたのだが、そのうちにこんなことがあった。
作業場で土を練っていたところ、背後の扉が開く音がしてふわっと風が吹き込んできた。
続けて「ふぅーっ……」と誰かの溜息が聞こえる。
なんだ誰が来たんだ、と思って横目で後ろを見たが、誰もいないどころか扉も閉じたままだ。
いつものやつか、と拍子抜けしながら視線を土に戻したところで仰天した。
こねていた土のちょうど真ん中に人の足跡がひとつ、はっきりとついている。
小さな子供の、裸足の足跡だった。足裏のしわまでくっきり見える。
これには怖いとか不気味だとか思うよりも、まず頭にきた。
大事な作品の材料になんてことをしてくれる、とすっかり頭に血がのぼって大声で怒鳴りつけた。

 


てめえふざけるなよ! 次にこんなことしやがったらただじゃ済まさねえからな!

 

むかむかしながらも土をこねる作業を再開したが、後になってから少し惜しいことをしたと思った。
足跡を携帯で撮影しておけば、幽霊の足跡だと言って誰かに見せてやれたのに――。


その人は今もその工房を使っている。
怒鳴ったのが効いたのかどうかは不明だが、それ以来奇妙なことが起こる頻度はすっかり少なくなったという。

傘の下

Mさんが高校生のときのことだ。
バス通学だったMさんは、放課後にバス停まで友人と並んで歩いていた。
朝から冷たい雨が降り続いていた二月の夕方で、二人とも傘をさしていた。
いつものようにおしゃべりしながら歩いていたところで、唐突に友人の話が止まった。
何だろうと思って友人の顔を見ると、まっすぐ前を見据えて口を閉じ、無表情で歩いている。
友人がふざけているのかと思ったMさんは笑って話しかけたが、それでも反応はない。Mさんなどいないかのように無言ですたすたと歩いている。
ちょっとやめてよ、ともう一度語りかけたがうんともすんとも言わない。目の前で手を振ってみても視線が動かない。
これは変だ、と思ったMさんは友人の顔を下から覗き込んだ。
すると友人の頭上に変なものが見える。
お面かと思ったが、すぐにそれが人の顔だとわかった。人の顔が友人の傘から逆さまにぶら下がっている。
真っ白な顔にいくつも深いしわの刻まれた老人だ。
老人は友人をじっと見下ろしている。
なにこの顔気持ちわる、とMさんが腕を伸ばすと、傘に染み込むように顔が引っ込んだ。
その途端、友人が驚いた様子でMさんの方を見た。――何してんの?
友人の感覚では、話の途中で突然Mさんが顔を覗き込んで手を伸ばしてきたのだという。
黙り込んでいたという記憶は友人には全くない様子だった。

水鬼

高校生の夏、Fさんは友人たちと三人で海釣りに行った。
バスで三十分ほどのところにある海岸の堤防に陣取って朝から釣っていたのだが、この日は妙に波も風も穏やかな日で、そのせいなのか何なのか、全く釣果が上がらなかった。
以前に同じ場所で釣った時にはそれなりに釣れたからまた来たのに、これではバス代を払って来た甲斐がない。
ちょっと場所を変えようと、そこから道沿いに十分ほど歩いたところで突堤が見えた。
その両側に消波ブロックも積まれている。こういうブロックの隙間に大物が潜んでいることがある。
Fさんたちは突堤の上で釣ってみようと決めたが、友人たちは途中にあったコンビニで飲み物を買いたいというので、Fさんだけ先に行くことにした。
突堤の上には他に人の姿はなく、Fさんは一番先のところまで歩いていって釣り糸を垂らした。
少しして友人たちがやってくるのが視界の端に見えたので、片手を上げたFさんだったが、どうも友人たちの様子がおかしい。
Fさんのいる場所の十メートルほど手前で二人とも立ち止まり、じっとこちらを見つめたまま近寄ってこない。
その顔が明らかに強張っている。
なんだ、何を見てるんだ、と目を動かしたFさんは、そこで初めて自分のすぐ傍に誰かが立っていることに気がついた。
いつの間に?
強烈な磯の臭いが鼻を突いた。
友人たちはその誰かを見ている。Fさんはゆっくりと視線を向けた。
若い女の人だ。というのは着ている服でわかったが、真夏だというのに長いコートを着ている。
そのコートがずぶ濡れで、表面を次々に流れ落ちる水が裾や袖口から雫となって落ちているのが見えた。
顔は逆光で見えないのかと一瞬思ったが、そうではないことがすぐにわかった。
顔のあたりが真っ黒なのは、原型を留めないほど崩れているのだ。
それに気がついた瞬間、Fさんは釣り竿を放り出して全速力で友人の方へと走り出していた。
友人たちも同時に走り出す。
後ろを振り返らずに走り、先程のコンビニに駆け込んだ。
血相を変えて入ってきたFさんたちを見て、レジのおばさんは目を丸くしたが、話を聞いてうなずいた。
あの突堤ね、このへんの人は誰もあんなところで釣りなんかしないよ。あんたら早く帰った方がいいよ。
おばさんはそれ以上何も教えてくれなかった。

写真週刊誌

Tさんが中学生のときのこと。
ある日の放課後、部活動が休みだったのでTさんは友達と遊びに行くことにした。
一旦家に帰ってから友達と合流し、自転車で買い物に行く途中。
道端の草むらがガサガサッと音を立てたと思うと、バサッと何かが前方の路上に飛び出した。
咄嗟に自転車を停めてよく見てみると、それはどうやら薄汚れた雑誌で、表紙に誰かの写真やら大きな見出しやらがびっしりと載っている。写真週刊誌のようだ。
誰かが草むらの向こうからこれを放り投げたのかと思ったが、周囲にTさんたち以外の人の姿はない。
草むらにしてもそう深くないので、隠れられるのは精々ウサギくらいだ。
一体誰がどこからこれを投げたのだろうか。Tさんたちは首をひねったが、遊びに行く途中でもあるので、深くは考えずに通り過ぎようとした。
また自転車をこぎ出そうとしたところで、またバサッと音がした。反射的に視線を向けると、先程の雑誌がバサバサと音を立てて跳ねている。
大きく開いた雑誌はカエルか何かのように元気よく跳ねながら、唖然とするTさんたちの目の前を横切って反対側の草むらに飛び込んだ。
草むらに飛び込んだときのガサッという音を最後に、辺りはすっかり静まり返ってもう何も動くものはなくなった。


何あれ?
さあ……。


ぽかんと顔を見合わせたTさんたちは、そのまま無言でそこを立ち去った。
雑誌が消えた草むらを探ってみたい気持ちもあったが、何となく誰かに見られていそうな気がして、その場に留まりたくなかった。
後で友達とこのときの話をしたところ、友達も同じように感じていたのだという。