お膳

Eさんが市内を流れる利根川に出かけ、一人で釣り糸を垂らしていた時のこと。
三匹ほど釣れた後にじっと座って川面を眺めていると、視界の端に何かが現れた。
浅いお盆に載せたお膳が水の上に浮いている。白飯と汁物と箸がお盆の上に並んで川面をゆっくり滑ってくる。
そんなものが流れてくるのは初めて見た。
その日は波が穏やかだったのでそれほど揺れることもなく、お膳はEさんの視界を横切って流れていく。
川で亡くなった人へのお供え物かな? とEさんは上流の方へ目をやったが、お膳を流したらしき人の姿は見えない。他に流れてくるものも見えない。
もっと遠くから流れてきたのかな、しかしあんなお盆に載せただけでよく沈まないもんだな。
そんなことを考えながらお膳を目で追っていると下流の方からモーターボートがやってきて、勢いよく通り過ぎていく。
ボートの引き波がEさんの目の前まで届き、お膳があっという間に波を被った。そのまま沈んでしまったようで、お膳はそれきり見えなくなった。

あの白飯に寄ってきた魚が釣れないかな、などと考えながら釣り竿を握っていると、またすぐに視界の端に何かが流れてきたのが見えた。
お膳だ。先ほどとそっくり同じものが流れてくる。
また上流に目をやったが、誰もいない。

しかしつい先程上流に視線を向けたときにはもうひとつのお膳など見えなかったのに。もっとも、それは単に気が付かなかっただけかもしれないが。
お膳が近くまでやってきたとき、また下流の方からエンジン音を立ててモーターボートがやってきた。先程と同じだ。
引き波がやってきて、お膳が水中に消える。
全く同じ光景が二度繰り返されたのが妙に気にかかった。
もう一度同じことが起こるのではないか?
なんとなくそんな気がして、上流の方を凝視しながら釣りを続けていたが、新たにお膳が流れてくる様子は一向にない。
先程のは単なる偶然か、と思うと妙に期待していた自分がおかしくなって、笑いながら傍らに目をやった。
いつのまにか、釣った魚を入れていたバケツの中身が水だけになっている。
やられた!! とEさんは悔しがったという。

転落

五年前の話だという。Hさんが職場に通う途中に神社の石段がある。
両側に手すりはあるものの、見上げるような長い石段で、勾配も急だ。
時折、神社にお参りする老人がよたよた上り下りしているのを目にしていたが、転げ落ちはしないかと心配していた。だからそこを通る時にはつい石段の上が気になって、見上げながら歩いていた。
その朝もいつものようにそこを通りかかったHさんは、石段の上に視線を向けた。すると何かが上から転がってくる。
人だ。
足を踏み外したのか、誰かが石段を勢いよく転げ落ちてくる。
いけない、と咄嗟に腕を伸ばしながら駆け寄ったが、間に合わない。Hさんの目の前で石段の下の石畳に叩きつけられる。
ズダンッ!!
物凄い音が響き、足元が衝撃で揺れる感覚があった。
しかし目の前には誰の姿もない。
見回してみても、人の姿も、人が目の前に落ちた形跡もない。
石段の上を見上げても誰もいない。
それどころか、たった今目の前に転げ落ちてきたはずの人がどんな姿をしていたか、どうにもぼんやりとしていてはっきり思い出せない。
――こんなのは普通じゃない。
Hさんは足早にその場を離れ、それ以来そこを通るときは石段の上を見上げないように俯いて歩くようになったという。

 

エビ

Oさんが中学生のとき、友人グループにHという男の子がいた。
クラスの中であまり目立たないほうの無口な子だったが、落ち着いてどこか大人びたところがあり、Oさんとは特に仲が良かった。
そのHが二年生の秋頃、学校を二日続けて欠席した。学校にも連絡がなく、先生が家に電話しても誰も出ないという。
次の日の朝、部活動の朝練で早く登校したOさんが鞄を置きに教室に入ると、席についたHの姿があった。
よう。なんで休んでたん? 風邪?
そう声をかけたが、Hはぼんやりとした目つきで「うん、うん」と曖昧な返事しかしない。
どうもまだ体調が悪いのか、顔色もおかしい。茹でたエビのような真っ赤な顔をしている。熱があるのか。
もう一日休んてたほうがいいんじゃないの、とりあえず保健室で寝てくれば?
そう語りかけたときに騒がしく他の友人たちが教室に入ってきた。彼らに声をかけてから視線を戻すとHの姿がない。教室のどこにもいない。
友人たちもHの姿は見ていないという。結局その日、HはOさん以外の前に現れなかった。


Hが見つかったと聞かされたのはその日の夜だった。
山の中に停めた車の中で、一家揃って亡くなっていたという。しかし朝に会ったばかりで、亡くなったと聞いても現実感がなかった。葬儀も行われなかったようだった。
中学生の頃は詳しいことを聞かされなかったのだが、大人になってから、それが実は練炭による一家心中だったことを知った。一酸化炭素中毒で亡くなると遺体の顔が紅潮するという。
だからあの朝、顔が真っ赤だったのか。Oさんは腑に落ちた思いがした。
そこで初めてHが亡くなったことが本当のことだと理解できて、ようやく涙が出たという。

ひとだま

 

Kさんの神奈川の実家には時々ひとだまが出る。
ある時Kさんが東京から帰省した。
玄関の前まで来てインターフォンのボタンを押そうとしたとき、視界の端にひらひら動くものが映った。
何気なく視線をそちらに移すと、細長いぼんやりしたものが地面の上で揺れている。
あっ、ひとだまだ。久々に見た。
灰色がかったかたまりが細長く尾を引いており、動きに従ってその尾がひらひらとなびく。
小動物のようにちょこまかと地面の上を滑り、またたく間に植木鉢の陰で消えた。

 


その家に一家で引越してきたのはKさんが中学一年生のときで、それ以来Kさんだけでなく、家族それぞれが家の周りでこのひとだまを何度も見ているが、複数人の前には決して現れず、一人でいるときに限って出るという。
写真を撮ってやろうと意気込んだこともあったが、カメラを設置しておいても一向に現れないし、目撃した時にカメラや携帯を取り出そうとしても間に合わずに一度も成功しなかった。
ひとだまと言えば空中を飛ぶイメージだが、Kさんの話の中だとひとだまは飛ばない。
飛んでいることはなかったんですか、と聞くとKさんは首をひねった。
いや、うちのは飛んでるところ見たことないですねえ。何でか、いつも地べたをうろついてます。

城山公園

Yさんが妻と二人でドライブに出かけた。
隣町に城山公園という、城址が公園になっている場所があり、高台で見晴らしがいい。ここで車を降りて一回りしようということになった。
桜並木が有名で花見シーズンには人混みでごった返すものの、このときはもう葉桜の時期で人の姿はほとんどなかった。
二人で少し散策したところで、妻がトイレに行くというので、Yさんは傍のベンチに腰を下ろした。
運転して少し目が疲れていたので下を向いて目を閉じた。すると数秒してすぐ隣に誰かが座った気配がある。
妻が戻ってきたのかと俯いたまま瞼を開けると、隣に見えるのは男のものらしき脚だ。灰色のズボン。妻ではない。
しかしどうも目が疲れているのか、視界がぼやけている気がする。
しかしぼやけているのは隣の男の脚だけで、自分の脚や地面ははっきり見える。
どういうことだ、と目だけ動かして隣の男をよく見ようとしたが、胸のあたりまでしか見えない。そして胸のあたりまですべてぼやけている。白っぽい服を着ているというくらいしかわからない。
なんだこいつは、と背筋に汗が吹き出すのがわかった。
何も気付いていないふりをしてすぐに立ち上がろうか、それともこのままじっとしているべきか。
迷っているところで肩に誰かが触れた。
弾かれるように振り向くと妻だった。なにあなた、寝てたの。行きましょ。
曖昧に返事をして立ち上がったが、見回すと周囲に他の誰かの姿はなかったという。

てるてる坊主

夜九時過ぎ、Rさんの携帯に彼女からの着信があった。
出てみると随分落ち着かない様子で、すぐ来てくれという。
どういうことなのと聞き返すと、アパートの部屋の前に変なものがいて、怖くて入れないとのことだった。
変な人がいるんだったらまず警察呼んだほうがよくないか、と言うとそうじゃないと言う。
とにかくすぐ来て、の一点張りなのでRさんは車を飛ばして彼女の元へと向かった。
最寄りのコンビニに避難していた彼女と合流してから、彼女のアパートへと歩いた。
エレベーターで五階に上がる。彼女の部屋はエレベーターの正面からまっすぐ行った先だ。
廊下には誰の姿もない。大丈夫そうじゃない? と彼女に笑いかけたが、彼女は硬い表情で首を横に振った。
まだ安心できないから先に行って確かめてほしいと言う。
彼女から部屋の鍵を受け取り、エレベーターの前に彼女を残して部屋に向かって進む。
やはり前方には誰の姿もない。
並ぶドアはどれも閉じて静まり返っている。このどれかに、不審者が隠れているんだろうか。
用心しながら歩いていったが誰も出てこないまま、彼女の部屋の前まで来た。
彼女の方に手を振ってから鍵をドアに差し込もうとして、ふと視界の端に白いものが映った。
視線を向けるといつのまにか妙なものが隣の部屋のドアの前に浮いている。
真っ白なボールの下に大きな白い布が垂れ下がっていて、大きなてるてる坊主そのものだが、ボールに顔は描かれていない。白いのっぺらぼうだ。
奇妙なことに上にも下にも糸や支柱は見当たらず、廊下の明かりに照らされて空中に浮かんでいるようにしか見えない。垂れた布の裾がそよ風に揺れている以外は、ぴくりとも動かない。
いつの間にこんなものがすぐ近くに現れたんだ。どこから出た。
変なものがいるというのはこれのことなのか。
Rさんはもっとよく確かめようとそちらに一歩踏み出し、腕を伸ばした。
ちょっと、だめっ!
すぐ近くから彼女の声がした。気付かないうちに彼女もすぐ近くにいて、Rさんの袖を掴んでいる。
てるてる坊主に視線を戻すと、真っ暗闇だ。
よく見ると五階から見下ろす夜の街で、自分は廊下の手すりから身を乗り出して腕を伸ばしている。
もう少しで足が床から離れそうな姿勢だ。
ゾッとして慌てて体を廊下に戻した。
てるてる坊主に触ろうとしていただけなのに、なぜあんな姿勢だったのか。彼女が止めてくれなければそのまま五階から落ちていた?
彼女の話では、Rさんはドアに鍵を差し込んでからすぐに身を翻して手すりから身を乗り出したのだという。てるてる坊主など見ていないと言う。
てるてる坊主の姿はもうどこにもないが、こんな所にいるのはもう嫌だった。
その日は彼女をRさんの家に連れて帰った。


この翌週、てるてる坊主がドアの前にいた部屋で住人の女性が亡くなっているのが見つかった。病死だったという。てるてる坊主との関係は不明のままだ。
Rさんの彼女はもうこんなアパートには住みたくない、とすぐに引越したという。

結婚生活

Rさんは中学生になる頃から何度も同じ夢を見るようになったという。
夢の中では若い女性と一緒に暮らしている。現実には会ったことのない見知らぬ女性なのだが、夢の中では夫婦になっている。
毎回目が覚めてからああ今のは夢だったかと自覚するものの、夢の中ではその状況に全く疑問を持たない。女性は愛情のこもった態度でRさんに接し、Rさんもそれを自然に受け入れて結婚生活を営んでいる。
繰り返しその夢を見ているうちに、次第に現実の中でもその女性が存在するような錯覚を持つようになってきた。
ふとした拍子にその女性を目で探してしまったり、何か飲もうと思った時にその女性のぶんまでコップを用意してしまったりする。
Rさんの両親も流石に様子がおかしいと思い、医者に診せたが特に異常はないという。それで今度は知り合いに紹介してもらった拝み屋に相談した。
拝み屋と言っても会ってみると普通にいそうな平凡な主婦だったというが、その拝み屋がRさんをひと目見るなり言った。
女がいるね。普通の女じゃなくて、人形みたいな。
どういうことですか、と訊くと拝み屋は難しい顔をした。
若くして亡うなった女の魂がどこかの人形に宿ったんやね。その人形がお宅の息子さんを気に入った。
生きてる間に幸せになれんかったのを、取り戻したいんやろな。
何とかしてやりたいけど、その人形がどこにあるかわからんから根本的には解決できん。
私にできるのはこれくらいや。
拝み屋はそう言って手を合わせると、Rさんの両肩を手のひらでポンポンと叩いた。
樟脳のような、埃っぽいようなにおいが漂ったかと思うと、拝み屋の指がRさんの肩から何かをつまみ上げた。
数本の長く細い黒髪だった。Rさんの髪よりずっと長いだけでなく、家族にもそんな髪の持ち主はいない。


その後拝み屋に勧められて、縁切り寺として有名なお寺ののお札を貰ってきた。
それからはしばらくその夢は見なくなったが、二年ほどしてまた夢にあの女性が現れるようになり、それからはお札を新しくしても効き目はなかった。
Rさんは現在四十代半ばになっているが、今もまだその夢を見ているらしい。夢の女性は昔からずっと歳を取らず、若いままRさんと幸せに暮らしている。

今ではまるで夢がもうひとつの現実のようにも思えてきて、こちらの現実では結婚する気が起こらず、独身生活を続けるつもりだという。